音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン

横浜都筑のまちでコミュニティカフェやったり、音楽したり。こどもたちとまちづくりしたり。

本当に好きなことをやっていけ!

こどもが生まれることになったとき、「私は産むからさあ、育てるのはやってもらえないかな」と冗談半分いっていた私。
以前のブログでも書いたけど、生まれるときに仮死出産だったのもあって、風邪を引いただけで、死ぬんじゃないかとびくびくした。体が弱くて、喘息で2回入院したので、夜中にゼーゼーなることがこわくて、中学になるくらいまで、寝るときは私の手をこどもの背中に当てて、息をしているのを確かめながら寝ていた。大事に大事に育てた・・つもり。

だから勉強するのが嫌いで、ずっと外で遊んでいても、私はなにも言わなかった。だって、こどもは遊ぶのが仕事だと思っていたから。(私の個人的な好みで、ゲームは一切買わなかったけどね)、とうとう塾には行かせなかった。

幼いときから、たくさん私の仕事につきあってもらい、深夜のレコーディングスタジオで寝ることもあったよな。バスドラムの中の毛布で寝たこともあった(笑)普通の家庭ではないことかな。

一家全員寝坊してしまい、どうにも言い訳できなくて、小学校をお休みしたこともあった。ごめんなさい。

そんな、カレももう20才になった。感無量だよね。大人になって、とてもたくましくなった。どんな道を歩いていても,だいじょうぶって思える、この確信が大事なんじゃないかなって思っている。

私は母に「あなたは、絶対に間違った道には行かないから、どんなときも自分の判断で進みなさい」と言われてきた。それがずっと私の根拠のない自信になっているような気がする。

それと同じように、私も私のこどもに、「自信をもって、自分の好きなことをしなさい。私はそれを全力で支えるよ」っていいたい。

親は、自分のこどもをもっともっと、自慢していいんじゃないかなって思う。

うちの子はこれができないって見つける必要ってある??「うちの子はこれが苦手で」よくこのセリフを聞くんだけど、ごめん、私には自分のこどもにそんな悪いところが見えなかった。少なくとも私自身の子ども時代よりはずっといい子だったんだもん。

私は中学のとき自分の意思で出ない授業があってボイコットしてたし、高校のときには、お昼まで喫茶店で時間つぶしてからいったこともあった。学校さぼって男の子とLED ZEPPELINの永遠の詩という映画?(いまはプロモーションビデオって呼ぶのかなも)を見に行ったこともあったしね。

好きなことだけをやって大人になり、親になった私だけど、こどもと一緒に過ごした日々は、かけがえのないすてきな体験だった。本当に生まれてきてくれてありがとう、といいたいな。

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今度7月23日にうちのそら氏もギターを弾くことになり、今日も数時間一緒に練習した。楽しい時間だ。私よりもずっと耳がいいので、がんばってほしいものだ。

よかったら見に来て・・・まだまだ修行中だけど、楽しみながら演奏したいな。

7月23日くにたけみゆきコンサート | シェアリーカフェ



どんな組織にいるかなんてどうでもいい。

ここのところ、助成金に応募しまくり、そのプレゼンやヒアリングが続いている。
これからも出せるものは全部出していく。
なぜならNPOが昨年度も大きな赤字だった。なんとかしなくちゃいかないのだ。
できることはすべてやろうと思う。

ヒアリングでのできごと・・・
行政の方から「テーマ型、地縁型のコミュニティがあり、あなたたちはテーマ型だと思うが、自治会や町内会とは連携してないのか?そういうところからお金をもらってやるということはないのか?」と言われた。
私は「町内会でチラシを回覧してもらったり、人手で協力してもらったりはあるけど、お金をもらったことはないです。そういう協力を得られるなら教えてほしいくらい」と答えたのだけれど・・・。

けどさ、テーマ型とか地縁型にこだわるのって、すでにもう古くないか?
私たちは「みんなのまちづくり」で、地域の連携(もちろん自治会町内会、商店街も含む)を評価され、横浜市の人・まち・デザイン賞をもらい、さらにそこからの推薦により、協働を評価され、国土交通大臣賞をいただいた、と自負している。

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コミュニティカフェのいいところって、そういう組織の垣根を取り払って、ひとりの人としてお茶して会話できる気軽さじゃないかなって、帰り道に思った。

そうだ!だからそういうことができる場所を深くつくっていくんだ。

もうすこしがんばるんだ。

みなさんにもっとカフェを活用してほしいなって、切実に思っている。

テーマ型、地域型という概念はあるけど、それはただの分類であって、組織と組織のつきあいなんて私はしてきてない。(私がプレゼンでよく使う図にもちゃんと書いてるけど、それは意識して多くと協働したいと願っているからなのだ)

そんな私が私なりの助成金やプレゼンのしかたについて、講座をやることにします。
8月後半に予定しています・・・。またお知らせしますので、ぜひ興味のある方は来てください。

 

救急車を見る度、思いだすこと。

交差点を救急車が横切ろうとしていた。

救急車を見る度、出産のことを思いだしてしまう。

私は、陣痛が20分おきになっても、まだ、アレンジの仕事をしていた。出産したら、しばらくできないな〜と思っていたから、ぎりぎりまでやっていたのだ。

5分おきになったので、病院にいくことにした。そのときにはもう死にそうにお腹が痛かった。

着いたのは24時すぎ。
個人医院だったので、当直の若い看護師が、対応してくれた。私、今日がはじめての夜勤なんだ〜と明るくいっていた彼女が、明け方慌てて「赤ちゃんの心拍が止まった!たいへん、先生を呼ばなくちゃ」なにがなんだかわからないうちに、うちの彼は書類にサインをし、私は分娩台からすぐ横の細い手術用のベットにまっぱだかのまま、歩いて移動し、背中に注射を打たれて、帝王切開となった。
赤ちゃんを取り出すことが急務で、あまりに慌てていたので、注射をしてすぐお腹を切ったので、切る感覚がわかったほどだ。朝6時頃だったかな。
気が付くと、看護師が何人も来ていて、みんな慌ただしく動いていて話しかけることもできない。
赤ちゃんが生まれたのかどうか、聞くこともできなかった。というか、私は「赤ちゃんは死にました」といわれると思ったので、聞くのがこわかった。みんな私にいいずらいのだ、きっと。そう思った。
救急車呼びます、という声が聞こえて、「あの〜赤ちゃんはどうなったのでしょうか」とおそるおそる聞いたら、「大丈夫、生きてます」と言われた。救急車がこなくてこなくて。
ようやくきたら、救急隊員が「保育器がなくて、聖マリアンナにとりにいってから来たので遅れた」と話していた。運ばれる前にちらっと保育器に入っている色の悪い(紫色?)の赤ちゃんを見た。
お医者さんから、「15分心拍が止まったので、脳性麻痺などの恐れがある」と説明を受けた。淡々と。「死んだわけじゃない」私は思ったっけ。

それから私は病院で麻酔を入れてもらい、うとうとしたり、また痛みで起きたり。臨時のベットだったので、私が1日中寝ている間に3人もの出産が間近で聞こえてきた。

しらなかったのだけど・・・
救急車で運ばれるときに、出産した病院に、その手配料10万と行く先の大病院に10万もっていくようにと言われて、うちの彼は言われた通り持って行ったという。私はあとから激怒しそうだった。なんで20万も余分に払わなくてはいけないのか。救急車呼ぶの当たりまえだし。もう時効だからいいだろう。もう20年前の話だから、いまはそんなことはないだろう、と思うけど。

溝の口イトーヨーカドー前の○○産院から、藤が丘の大病院へ。藤が丘の病院も封筒に入れた10万を「○○医院からです」と言えと医院から言われたとおりにうちの彼が言うと、そのままうけとったらしい。それは誰のものになったんだろう。

私だったら、、、払わない。でも、こどもがやばい、わたしもお腹を切ってて、うちのは動揺してすぐに銀行でお金を下ろしたらしい。しかたないこととはいえ、弱みにつけこんで必要の無いお金をとるなんてゆるせない。

*********

私はそんなことも知らずに、個人医院で麻酔を打ってもらったりしながら、入院5日間。天井をみながら「これは誰のせいでもないのだ。誰かをせめてはいけないのだ」とまったく頭の中は真っ白だった。

6日目に退院できて、ようやくこどもに会いに藤が丘にいった。
未熟児の並ぶ、保育器の中で、10ヶ月たってうまれたうちのこどもは、元気そうに泣いていた。検査のため、毎日注射していたので手の甲が針のあとでいっぱい。1ヶ月後に何事もなく、退院した。なんてラッキーな子なんだろう。

障がいが出る、と言われ続けたので、その後もなにかあるとむちゃくちゃ心配したけど、喘息が小学校あがるまであったけど、入院をその後2回もしたけど、でも、もう20才になり、まったく普通に元気に育った。

だから・・・
いつも思うんだ。
元気なだけで、生きているだけで、それ以上はいいんだって。

明日は母の日だ。

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私が帝王切開退院後、はじめて対面した日の写真。

音楽は、ほぼヤマハで勉強した!

私はこどものとき、音楽においてさまざまな体験をした。
家の近くの幼稚園の幼児科に入って鍵盤楽器に触れ、コンサートを見に行ったとき、「観る側」ではなく、「ステージの上に立つ側」になりたい、と強く思ったことを覚えている。
あれは 5才か6才のころのことだ。

大人になり、月刊エレクトーンに私が載るなんて・・・ね。

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歌を歌うのも好きだったけど、自分で自分の声に納得がいかなかった。
エレクトーンは楽しい楽器だった。一人でバンド演奏できるし、一人でオーケストラにもなれる。
ピアノは、とにかく「間違いなく」「譜面通り」弾くということが、みんな一緒のことを弾くのかと思うとつまらなく思えるし、なによりもあのしらっとした、飾りのない、明るいだけのステージで演奏するのがいやだったんだ。

おもしろいな〜とそこそこがんばってやってたら、ちょうど、こどもたちに作曲をさせて、演奏をさせる、というオリジナルコンサートというプロジェクトが始まった。名古屋にいたから、他の地域のことは知らないけど、とにかくそのヤマハがはじめた、プロジェクトの実験台、最初の5〜6名に私は選ばれてしまったのだ。

ジュニアオリジナルコンサート(JOC)はいまも続いている。それってすごい。
このあゆみをみると1972年の第一回の合歓で行われたコンサートの会場に私はいた!!
残念ながら私はあまり優秀ではなかったので、友だちが出演するのを見に行っていたのだ。
http://www.yamaha-mf.or.jp/joc/activity/meaning/

このころのメンバーをみると、みんな今も一線で活躍している演奏家、作曲科、編曲家がたくさんいる!
優秀がこどもたちが集まっていたんだよね、私はそんな中とっても劣等生だったので、ついていくのに必死だった。

このプロジェクトのトップが、当時のヤマハの川上理事長さんだった。
こどもたちが作曲の発表をするコンサートなどが名古屋であり、理事長さんが聞きに来ることになると、JOCのこどもたちが話し相手だった。いつもニコニコしていて、やさしいおじさまだったけど、大人はみんなピリピリしてた。

私たちが通っていた、東山公園にある東山センターは、1階、2階が家具売り場とスーパーマーケットだった。音楽教室とスタジオはその上の階だったのだけど、万が一家具売り場も見学するかもしれない、と、大人たちは気を利かせすぎて、理事長さんの来る日は、家具売り場もJOCの曲がBGMとしてかかっていたし、理事長さんの書いた本がさりげなく?!私から見るとわざとらしく、家具売り場の本棚に並べられていた。理事長さんも、行く先々でJOCの曲がかかり、自分の書いた本がおいてあるってなんかおかしいなと思わなかったんだろうか。
あるとき、大事件がおきてしまった。私たちこども数名が家具売り場や音楽教室を案内したりして、大人が目を離したすきに、「理事長さんがいない!」となった。トイレにいるのかとか、まさか外に出てしまったのか、はたまた東山動物園に行ってしまったんじゃないかとか、必死で探したところ、、、。なんと、1Fのナフコというスーパーのレジに乾電池を買おうと思って並んでいたのだけど、お金をもっていなくて、レジのおばさんに変なおじさんと間違えられて、困っていたところを発見される、という冷や汗な事件があった。そのとき、私は社長さんってお財布をもっていないのか、とこどもながらに知ったのだ。持つ必要がないんだよね、たぶん。
理事長さんはとくにおこってもいなくて、平常心で、つきそいの社員にお金を払ってもらい電池を手にして普通にニコニコしていた。まわりは冷や汗で死にそうな大人たち・・・。不思議な光景だったな。

あるとき、こどもたちのコンサートをみていて、「ピアノの発表会みたいなドレスに胸のコサージュ、あれはよくない」と彼がいったとたん、次の年より、JOCのコンサートで胸にコサージュをつけたこどもはゼロになった。いまは解禁されているのだろうか。

ある年に、「サックスはオーケストラで使われない楽器だけど、あればなかなかいい楽器だ、もっと日の目を見ないと」と言っていた、ということが全国のJOC指導者に知れ渡った。私も当時の先生からサックスの入った曲を創るように言われたけど、つくらなかった。そして当たり前のように全国からサックスが入った楽曲が集まったらしい。

さりげなくいったこと、ふと漏らした言葉を、まわりの大人が「神の声」のように聞いて実行しようとしているのをたくさん見てきた。ポップスではドラムが指揮者だとの発言があったので、理堤(理事長提出用)と呼ばれる音源のミックスがドラムと歌しか聞こえないようなミックスになってしまったり。

判断はとても正しい人だったと思うし、さすがなコメントもたくさんあった。だけど、まわりの大人たちが気にしすぎて、過敏に反応しすぎてて。なんかこどもながらに気の毒だとおもったくらいだった。

大人になって、クラビノーバの海外デモンストレーターをしていたとき、北京で大学に通っている、お孫さんに会った。中国の日航のホテルで2人でお茶することになったので、浜松?の大きな池の周りでの春の園遊会にいったことなど話したけど、残念ながら、恋バナには発展しなかったな(笑)するわけないか・・・。いまごろどうされているんだろう。そのときもらった名刺、まだ持ってると思う。普通のやわらかい感じの青年だった。

ポプコンの想い出は以前ここにも書いたので、ぜひ。

akikoiwamuro.hatenablog.com



アナログという言葉さえなくなるかもしれない未来

過日、近所の中学校の高校面接の練習があり、私も面接官を担当した。
そのとき、校長先生が「いまの中学生はいまある職業ではない仕事に半分はつくという予測データがある」と言われていた。未来の仕事ってどんなだろう。

車の運転だって、免許取る必要がなくなるだろうから、自動車学校もなくなるんだろう。

たぶん道に咲く花に、i-phoneをかざしただけで、siriが名前を教えてくれるし、鳥の名前だってそうだ。

生まれたとたんに、遺伝子を見て、その子が何に向いているかおおよそわかってしまうだろう。そうすると効率よく自分の好きなものが見つかるんだろう。

音楽もいまの気持ちにぴったりのBGMを解析して、聞かせてくれるようになるに違いない。音列さえもAIの方が、ぐっとくるメロディをつくってくれるかもしれないのだ。

さて・・・。なんでそんなことをつらつら書いているかというと、今日20時ごろ家にかえったら、インターホンの通話というボタンが青く光っていたので、押してみると「現在、管理棟の地下にある給湯装置の3つのうち2つがトラブルでとまってしまっているため、水が出にくくなっております。通常通り水が出るまでに、あと1時間ほどかかります。つきましては、トイレは管理棟のものを使えるようにしております・ごめいわくをおかけします」としゃべるではないか。あなたは誰?
40代位の男性の声で、それはロボットではなさそう。

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試しに蛇口をひねってみると、出ない!
管理棟はとっくに終わっている時間だから、特別誰かが来て作業しているんだろう。そのことを300くらいあるマンション住人全部にいっせいに正確に伝えられるってすごい。

さあて。年度末だ。明日年度末なので、まだまだ頭を使う作業がたくさん。アナログな頭でがんばるぞ〜〜。

魂を売ってしまった、アルプスの少女ハイジ

私は悲しい。
だって、草原を駆け回り、いつも頬をピンクに染めている、自然から学んでいるはずのハイジが、家庭教師をつけて、勉強し、他のひとを牽制したり、いやなことをいってる。おじいさんはぜったいにハイジに勉強しろなんていわないはず。「勉強なんかしないで、こどもは外で遊んでおいで」というはずだ。ひつじ飼いのペーターは、ちいさくても、もうりっぱに仕事をしていて、自立しているたのもしい男子。日々の仕事の中から、生きる力、知恵を身につけているはずだ。だから絶対に家庭教師なんかつけて受験勉強なんかしないはずだ。ハイジは受験勉強とは真逆にいる女の子だ。

あえていうなら、勉強するのはクララだろう。クララは都会の子でカラダが弱く、ハイジとお日様のなかですごしていたら、元気になった、というストーリーなんだけどね。

私がいいたいのは、大好きなハイジのイメージを勝手に大きく変えているこのCM、いったい原作者はゆるしたんだろうか。私ならこのような魂を売ることはしない。ぜったいにやっちゃいけないことをやってる気がする。

このところ、ど根性かえるひろしの大人版とか、おそまつさんとかもあるのだけど、それは大人になったアニメ主人公の話。個人的には、おそまつくんは、なるべくして、ぶっ飛んだままで大人のおそまつさんになっていて、うれしい限りだ。

こどもの頃、アルプスの少女ハイジを何度も本で読んで感動し、野原をかけまわって、ボールがみえなくなるまで遊んでた私。近所の男の子と冒険団をつくって、田んぼや野原を探検していた私。

ハイジ!そろそろもう勉強は終えて、山で学ぼうよ。

3月20日、こどもたちが遊びながらつくるまちが、まちなかに1日だけオープンします。大人ボランティアを募集しています。興味のある方は、minicityplus@gmail.com までお問合せください。
私は「遊びの中から学んできた」大人の見本です!!

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沼ガール〜アカハライモリ飼育キャリア15年!

私は生き物の世話には自信がある。

うちの猫は長生きするというだけでなく、いつまでも元気でぴんぴんしてる。
先代の猫はカルカンCMも出た(以前にブログで書いた)
けど、おおよそ20年くらいは生きてた。

akikoiwamuro.hatenablog.com


ときどき登場する、雨の日に拾われたレイン。うちのそら氏が3才のときの誕生日プレゼントとして、センター南の里親探しでもらってきたのでもう17才。猫は15才以上が長寿猫ということらしい。でもまったく元気で机の上にもジャンプして飛び乗り、すごいスピードで家の中をかけまわる自由なやつだ。


もうひとつ、うちのそら氏の5才の誕生日になにが欲しい?と聞いたら、アカハライモリを飼いたいと言い出した。うちのもより駅のセンター北には、ヨネヤマプランテーションという大きなペットショップがあり、猫のえさや猫砂を買いに行くたび、ついでに鳥たちや小動物、爬虫類なども、まるで動物園にいくように眺めて楽しんでいたのだ。その中でアカハライモリが気に入ったらしい。
本当は第一希望は、リクガメだった。リクガメはとってもかわいく、私も大好きで床暖房のうちの床できっとたのしく飼えるんじゃないかなと思ったのだけど、ものすごく繊細で、1ヶ月に1度36度のお風呂にいれてうんちさせてください、とか・・・しかもどんどん大きくなるらしいので、断念した。

ああ。前置きが長くなった。
けどもうひとつ。

たしかそら氏が2才のとき表参道で花見をした。青山墓地の近くで超穴場なので人気もないけどすてきな公園でそこに水飲み場があったのだけど、そこの横の池から水が流れ込んで、水飲み場の下水と繋がっていて、おたまじゃくしが下水に流されそうになっているのをみんなで必死で助けたことがあった。

そんなことがあり、その翌年も心配になってまた青山墓地の池をみにいってみたら、その春は寒かったのか、同じ頃(3月終わり)にいったのに、なんとおたまじゃくしはまだ卵だった。それをどうしても持ち帰ると聞かないそら氏に根負けして、ペットボトルに入れて卵の塊を持ち帰った。

で、家に帰って水槽にいれ、たまごを数えたら、ちょうど80個だった。

家の中の日当たりのよい場所においていたら、つぎつぎとおたまじゃくしになり、ゆでたほうれん草とコメ粒をえさにした。数えたらちゃんと80匹孵った。

ひとつだけかたちの悪いおたまじゃくしがいた。えさが食べにくそうだったので、個別にケアしたらその子もちゃんとカエルになった。

途中、カエルになる日がつかめなくて、ある日深夜のスタジオワークから帰ったら、浮いているものに捕まれなかった、カエルになったばかりのやつが3匹おぼれてしまって、明け方4時に帰宅したのにそれから、ネットで調べて島をつくったりして、残りが全部カエルになった。ここからが大変になった。
今度は動くえさしか食べないから。毎日、緑道に緑色のアブラムシを探しにこどもと散歩に出た。「黒い虫はおいしくないんだよ、緑のやつを探そう」と、道ばたで自分達が食べる虫を探している親子に見えてぎょっとされたり。77匹いるから一人5個食べるとして、目標300匹/1日。毎日毎日新しい虫を探しにいった。
水槽の中はまるでジャングルで、77匹の子ガエルたちが、見えないほど早いスピードで舌を出して、ペろっと緑虫を食べるのは壮観だった。

1匹1センチくらいしかない、子ガエルのうちはよかった・・・・。

しかし・・・・。

だんだん大きくなってきたので、さて今度はえさがどうなるのかと思い、調べてみたら、「ダンゴムシ」などがいいでしょう、などと書かれていて。1日1カエル、ダンゴムシ1匹としても1日77匹のダンゴムシを捕まえるのは難しいと断念。

この頃になると種類はヒキガエルだとわかり、相当大きくなるし困ったので、生態系が乱れないよう、近所5カ所に分けて、15匹づつくらいを自然界に放った。すぐに魚や鳥のえさになってしまうかもしれないけど。そのとき、そら氏といっしょに「さよーならー。大きくなれよ」と泣きながら別れたな。
(写真がないのが残念だ)

さて本題に。

アカハライモリ。だいたい10年は生きると言われて、もう15年たった。
2週間に一度くらい別水槽に移し替えて、冷凍赤虫をあげる。ときどき固形のイモリのえさも。

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目があまりよくない生き物らしく、えさをあげるときに、まちがってお互いを食べようとしてしまうので(歯はないから大きな怪我はないけど、皮膚が水膨れみたいになったりする)、オスメス分けてあげるようにしてる。
オスメスどっちかわからないけど、たぶんおおきいの2匹がオス、ちいさいの2匹がメスだと思う。
そうそう4匹いて。。。最近、オスと思われるおおきいやつがメスを必要にかんでいじめてて、メスのカラダの色が悪くなっているので、これはいけない、、ととりあえず、手元にあったタッパーにいれて隔離したら。
朝になってみたら、タッパーが浅すぎて出てしまったらしく、どこにもいない。

棚の上においていたのでそこからきっと棚の裏側に落ちてしまったんだ・・・・。
それしか考えられない。
きゃああああああーーーー。と、実はインフルエンザ自宅待機中なのに、私が叫んだら家族が驚き、大騒ぎで、立てつけてある棚のねじをはずして、棚を一部壊すまでして、イモリ救出作戦となった。

 

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そしたらーーーーーー。いた!!!
もう半分化石のように固まって動かなくなっているのがまず1匹。
そしてさらに奥のコードのうらに、わからないくらいちいさく固まっている1匹。

まったく動かないので、もう干からびて死んでしまったのかと思い(なにしろうちは床暖房だし)、水の中にいれてみたら、すぐに復活して、元気そうに。

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よかった〜〜〜〜。

一大事件が一件落着。

新しい水槽を買いにいこう。
来週買いに行こう。

私は沼のものが好きなので、自分を沼ガールと呼んでます。
森ガールになりきれない人を沼ガールと呼ぶこともあるらしいが、私の場合、沼ガールはファッションではなく、沼にすむ生き物への愛情なのだ。適度な湿地感で妖怪などもいそうなそんな空間に住む生き物たちが好きなのだ。