音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン

横浜都筑のまちでコミュニティカフェやったり、音楽したり。こどもたちとまちづくりしたり。

音楽は、ほぼヤマハで勉強した!

私はこどものとき、音楽においてさまざまな体験をした。
家の近くの幼稚園の幼児科に入って鍵盤楽器に触れ、コンサートを見に行ったとき、「観る側」ではなく、「ステージの上に立つ側」になりたい、と強く思ったことを覚えている。
あれは 5才か6才のころのことだ。

大人になり、月刊エレクトーンに私が載るなんて・・・ね。

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歌を歌うのも好きだったけど、自分で自分の声に納得がいかなかった。
エレクトーンは楽しい楽器だった。一人でバンド演奏できるし、一人でオーケストラにもなれる。
ピアノは、とにかく「間違いなく」「譜面通り」弾くということが、みんな一緒のことを弾くのかと思うとつまらなく思えるし、なによりもあのしらっとした、飾りのない、明るいだけのステージで演奏するのがいやだったんだ。

おもしろいな〜とそこそこがんばってやってたら、ちょうど、こどもたちに作曲をさせて、演奏をさせる、というオリジナルコンサートというプロジェクトが始まった。名古屋にいたから、他の地域のことは知らないけど、とにかくそのヤマハがはじめた、プロジェクトの実験台、最初の5〜6名に私は選ばれてしまったのだ。

ジュニアオリジナルコンサート(JOC)はいまも続いている。それってすごい。
このあゆみをみると1972年の第一回の合歓で行われたコンサートの会場に私はいた!!
残念ながら私はあまり優秀ではなかったので、友だちが出演するのを見に行っていたのだ。
http://www.yamaha-mf.or.jp/joc/activity/meaning/

このころのメンバーをみると、みんな今も一線で活躍している演奏家、作曲科、編曲家がたくさんいる!
優秀がこどもたちが集まっていたんだよね、私はそんな中とっても劣等生だったので、ついていくのに必死だった。

このプロジェクトのトップが、当時のヤマハの川上理事長さんだった。
こどもたちが作曲の発表をするコンサートなどが名古屋であり、理事長さんが聞きに来ることになると、JOCのこどもたちが話し相手だった。いつもニコニコしていて、やさしいおじさまだったけど、大人はみんなピリピリしてた。

私たちが通っていた、東山公園にある東山センターは、1階、2階が家具売り場とスーパーマーケットだった。音楽教室とスタジオはその上の階だったのだけど、万が一家具売り場も見学するかもしれない、と、大人たちは気を利かせすぎて、理事長さんの来る日は、家具売り場もJOCの曲がBGMとしてかかっていたし、理事長さんの書いた本がさりげなく?!私から見るとわざとらしく、家具売り場の本棚に並べられていた。理事長さんも、行く先々でJOCの曲がかかり、自分の書いた本がおいてあるってなんかおかしいなと思わなかったんだろうか。
あるとき、大事件がおきてしまった。私たちこども数名が家具売り場や音楽教室を案内したりして、大人が目を離したすきに、「理事長さんがいない!」となった。トイレにいるのかとか、まさか外に出てしまったのか、はたまた東山動物園に行ってしまったんじゃないかとか、必死で探したところ、、、。なんと、1Fのナフコというスーパーのレジに乾電池を買おうと思って並んでいたのだけど、お金をもっていなくて、レジのおばさんに変なおじさんと間違えられて、困っていたところを発見される、という冷や汗な事件があった。そのとき、私は社長さんってお財布をもっていないのか、とこどもながらに知ったのだ。持つ必要がないんだよね、たぶん。
理事長さんはとくにおこってもいなくて、平常心で、つきそいの社員にお金を払ってもらい電池を手にして普通にニコニコしていた。まわりは冷や汗で死にそうな大人たち・・・。不思議な光景だったな。

あるとき、こどもたちのコンサートをみていて、「ピアノの発表会みたいなドレスに胸のコサージュ、あれはよくない」と彼がいったとたん、次の年より、JOCのコンサートで胸にコサージュをつけたこどもはゼロになった。いまは解禁されているのだろうか。

ある年に、「サックスはオーケストラで使われない楽器だけど、あればなかなかいい楽器だ、もっと日の目を見ないと」と言っていた、ということが全国のJOC指導者に知れ渡った。私も当時の先生からサックスの入った曲を創るように言われたけど、つくらなかった。そして当たり前のように全国からサックスが入った楽曲が集まったらしい。

さりげなくいったこと、ふと漏らした言葉を、まわりの大人が「神の声」のように聞いて実行しようとしているのをたくさん見てきた。ポップスではドラムが指揮者だとの発言があったので、理堤(理事長提出用)と呼ばれる音源のミックスがドラムと歌しか聞こえないようなミックスになってしまったり。

判断はとても正しい人だったと思うし、さすがなコメントもたくさんあった。だけど、まわりの大人たちが気にしすぎて、過敏に反応しすぎてて。なんかこどもながらに気の毒だとおもったくらいだった。

大人になって、クラビノーバの海外デモンストレーターをしていたとき、北京で大学に通っている、お孫さんに会った。中国の日航のホテルで2人でお茶することになったので、浜松?の大きな池の周りでの春の園遊会にいったことなど話したけど、残念ながら、恋バナには発展しなかったな(笑)するわけないか・・・。いまごろどうされているんだろう。そのときもらった名刺、まだ持ってると思う。普通のやわらかい感じの青年だった。

ポプコンの想い出は以前ここにも書いたので、ぜひ。

akikoiwamuro.hatenablog.com