音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン

横浜都筑のまちでコミュニティカフェやったり、音楽したり。こどもたちとまちづくりしたり。

私の友人シリーズ:仕掛け人の先輩

私の仕掛け人としての先輩、杉山昇太さん。
ニッカに勤めていて、本当は北海道の工場でモルトをかき回していたかったけど、営業担当になってしまい、中途採用横浜市役所に転職。保土ヶ谷区役所担当になってからまちづくりにばく進?して、数年前、横浜市立大学の大学院に入学してから、突然市役所を退職。現在はNPO法人の仕事や横浜市大の事務職もしている・・・であってるかな。
得意なことは、人と人、モノとモノのコーディネート。誰とでも仲良くなれるらしい・・。

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杉山さんと最初に知りあったのは、保土ヶ谷の区政推進の係長だったときだったと思う。そのころの私は、「都筑の魅力探検隊」という都筑区役所のHPを区民がつくる、という取り組みに区民ボランティア参加していた。

ブログという概念もなかった、2001年頃。行政が住民の意見を聞こうと電子会議室などを開設し、それが一部の方の投稿のみで埋まってしまうだけだったり、荒れてしまったり、と、ネットの双方向なんて考えられない頃だ。

区民が行政のホームページ(都筑区役所)を担当している、ということが先進事例らしく、私は、松本で行われた情報通信フェアにもよばれた。(なんと検索したらそのときにつくった資料が存在していた!)その後気仙沼にも呼ばれた。

都筑区民手作りホームページ「“都筑の魅力”探検隊」


その後、つづき交流ステーションを立ち上げ、私がしばらく運営にかかわった。(現在は幽霊レポーターです、すみません)


保土ヶ谷もそういった区民と行政の協働の取り組みをはじめたい、ということで保土ヶ谷区役所に呼ばれて話をした。まだ協働ってなんだ?と私には分からない頃だった。そうわからないことだらけだった・・・・。そんな頃、杉山さんと知り合った。

取り組みをお話しして、終了後、おそばやさんで食事をしてたら、「ミニミュンヘンみたいなこどものまちをやりたい」と杉山さんが同席していた山手総研の方に話しているを聞いて、「それだ!それをやりたいのは私だ!なんで私を誘わないんだ!」と心の中で強く思ったけど、まだ杉山さんがどんな人が知らなかったので、黙っていたことを覚えている。

その話がその後どのように出たのか、どちらが話したのか覚えていないけど、ミニミュンヘンならぬ、ミニヨコハマシティをやろうということになり、保土ヶ谷の区民祭りにくるように言われて、小学4年だったうちのそらくんを連れて一緒に祭りにいったら、そこには三輪さんがいた。そのあたりから急速にスタートして、ミニヨコハマシティ研究会をつくり、その後NPOミニシティ・プラス(三輪理事長)が生まれた。

前置きが長くなってしまったが・・・。
杉山さんと最初に一緒に行ったイベントが、ミニヨコハマシティだった。
「だいじょうぶ、ちゃんとやれる、まかせて」という彼の心強い言葉で、私は仲間を集めて、走り回り、準備をした。最初に私が書いた企画書は絵や図が多くて夢のようなものだったが、それだと行政うけしないらしく、行政が書くような企画書の書き方を杉山さんに教わったっけ。

そう、私がいまあるのは、行政にいた杉山さんが、手取足取り、企画書、申請書、報告書の書き方なども教えてくれて、私に必要な人を紹介してくれたから。

本人はそう思っていないかもしれないけど、まったくその通り。

ミニヨコハマシティのイベント当日は杉山さんに驚きの連続だった。

杉山さんだけではなく、他の行政の職員の方もたくさん手伝ってくれたのだが、こどものまちというやったことのない取り組みに戸惑っているスタッフだらけで、統括する役目の私に、質問がくるばかり。そのことに答えている間に時間ばかり過ぎていく状態だったのだ。

でも杉山さんは違った。私が「さて、次はここが手薄になりそうだ」とその現場にいくと、すでに杉山さんはそこにいて、私がやろうと思っていたことをやっていた!!

たとえば、そろそろこども市長選挙の準備をしなくちゃ、とその場所にいくとすでに、杉山さんが準備をはじめていた。2日目には豚汁の担当ボランティアがいないから、と朝一で、豚汁コーナーに行くと、杉山さんがすでにたんたんとつくっていて、こどもたちに指示していた!!

これには心の底からびっくりした!この人には頼れるんだ!!と、感動したのを覚えている。

「いざとなったら、本質に回帰して、解決する」「最後までよりよくなるように最善の努力する」そんなことを彼に教えてもらった。


私は3回も林市長と記者会見(記者発表)しているが、そのうち2つは杉山さんのしかけたプロジェクトによるものだ。いつもそうやって私が前面に出てきたが、影にはかならず、杉山さんの力があった。

私と杉山さんがペアでなにかをしかけると、思った以上に広がりが生まれた。
横濱良品館、ナポリタン学会、横浜市歌盆踊りヨコハマあらめや音頭、ミニヨコハマシティ、特命子ども地域アクター等等。

さて、まだまだできてないことがたくさんある。
今年はなにを仕掛けようかな〜〜〜。

あまり仲良くなりすぎて、本気でやりとりするので、他のスタッフやこどもたちから「けんかしている」と思われているかもしれないけど、いいものを創るためのやりとりなんです・・・。

そろそろ、一緒にユニットをつくろうかなと思っています。



「かっこいいか」どうかがすべての基準〜カミングアウト?

ちいさいときから音楽のいわゆる「勉強」をしてきた。

いやいや。正確にいうと、ヤマハ音楽教室の英才教育?のひとつとして、音楽のルネッサンスの思想があり「モーツァルト時代の、自作自演に回帰する」という方針があった。だから理論を学ぶよりも、即興演奏やこどもに自由に作曲させてみる、という中、私はなぜか、小学4年のときに、名古屋で数名のサンプル?に選ばれて、ありとあらゆる教育を受けた。
実験だったのかな。リズム感をつけるために、ドラムを習ってピグミー族の踊りを教えてもらったり、中南米の打楽器の奏法をならったり、即興演奏をするために、渡辺貞夫のジャス理論やドンセベスキーの本をもって、当時売れっ子だった編曲家の先生たちに、作編曲を習った。

理論も勉強したけど、いっぱい現場でも実験的なことをさせてもらった。
だから東京にきたとき、ありとあらゆる経験があったので、音楽でなんとかなるだろうと思ったんだよね〜。出てきたばかりの20代の頃は、超貧乏で、いつ家賃が払えなくなるかどきどきしながら暮らしていたけど。

ヤマハの教材つくらせてもらったり、ピアノのアレンジ本書いたり、コマーシャルやジングルつくったり、アーティストさんのデモテープお手伝いしたり、目覚まし時計の発信音つくったり、アーティストのバックバンドしたり、吉祥寺のお店でピアノ弾いたり、カラオケつくる仕事したり、晴海の音楽ブースでデモ演奏したり。
とにかく音楽とつくことならなんでもした。

30代のころ、友人に誘われて「グラムロック」のバンドに参加。
カルチャーショックだったな〜。
なにしろ、音楽の基準が「音が間違っている」ということではなく、「かっこいい音」か「かっこわるい音」かということで。音楽は「女の子にもてたい」からはじめた、みたいな男の子たちと、ツアーをまわった。
対バン(バンド同士組んでライブすること)は、イエロー・モンキーや、すかんち
そのころはみんなアマチュアだったんだよ。
でもなんか私のかかわったバンドだけはデビューできなかった。

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バンドのフライヤーで足がぶかっこうなのが私。バンドではギターは弾いてませんが。。。

バンドが解散するときに、イエモンから、お葬式の花が贈られたことを今も忘れない。いかしてるな〜と。私たちは渋谷のラママをいつも満員にしていたバンドだった。

全国ツアーもいったよ。私が主たる運転手でハイエースを運転して。

こどもたちのNPO法人やってるから、ちょっとあんまりな過去かなといままでみんなに話したことはなかったけど、まあいいかそろそろ。
演奏はなんかぐちゃぐちゃだけど、最後の方にはだか同然の私がでてきます
(閲覧注意で)

www.youtube.com



私も本物のロッカーやってました。
ふふふ。

 

目にみえない音楽の力

音楽って、目にみえない音の波じゃないですか・・・。

なのに、20代前半まで私は、「目に見えるモノ」しか信じていませんでした。

20代のころ、海外に派遣されるヤマハのデモンストレーターの仕事をするようになり、最初は台湾、香港、シンガポール、マレーシア、フィリピンなどに演奏旅行にいき、アジアで慣れると今度はスペイン、イタリア、フランス、イギリス、チェコスロバキア(そのときは分かれてなかった)、ドイツなどにいきました。
さらに、アメリカ、カナダは1ヶ月かけてかなり東西を横断し、中南米コスタリカウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルにもいきました。韓国、中国、インドにもいかせてもらい、本当に多くの人達の文化をしることが出来ました。

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演奏旅行のときの私の写真・・・・・80年代〜90年代だわわわ



フランスは1ヶ月半もいたので、印象深く、もう一度行きたいのは、ウルグアイ、それからイタリアのシシリー島かな。しばらく住んでもいいなと思ったのはイギリス、カナダ、シンガポールかな。
さて、本題。

演奏旅行で毎日1時間半のコンサートを各地で1人で行うのです。

最初は日本人通訳がついてまわってくれたのですが、慣れてくると1人で出かけ、現地のスタッフと司会の打ち合わせ、ステージの打ち合わせ、なども慣れない英語で行いました。1日中日本語を話さない日々が1ヶ月続くことも多々ありました。

英語圏の国はまだいいのですが、それ以外の言葉の国では、食事中は英語で話すことを忘れてしまったり、親しい人同士は自国の言葉で話します。
そんな会話をずうっと聞いていると・・・。

う? なんかその人の心が響いてくるんです。

言葉はわからないけど、ああ今この人は楽しいんだな、とかいらいらしてるんだな、とか、はやく帰りたいんだな、とか。
言葉以外の感覚をすごく人は使っているのに、普段はあまり意識していないんだな〜と外国でのツアーは私に気づかせてくれました。日本に帰ってからもそういう感覚を大事に人と会話するように心がけるようになりました。


コンサートをしていると、ほんのまれに不思議な体験をします。
たぶん、すべてのコンディションがよいときに限られるんだけど、
演奏している自分を俯瞰して楽しんでいる自分がいて、そういうときは、おきゃくさんが2000人いたら2000の声が聞こえるように思うのです。お客さんの意識がこちらに集中していっしょに音を楽しんでいるような感覚があります。
おきゃくさんと私の間の音の波が、美しく、見えるように感じるのです。とてもとてもそんなときはリラックスしています。

そんな日は演奏しているときも、し終わったときも、幸福感でいっぱいになります。
それはなににも変えられないすてきな体験で、だから音楽はやめられません!!

ヘキサゴンの仕事をしていたとき、つるの剛さんの歌の伴奏をさせてもらいました。
代々木体育館の1万2千人の前でつるのさんの歌と私のピアノだけ。
自分自身どんなに緊張するのか?と想像していたのですが、つるのさんの心から「歌いたい」「伝えたい」という気持ちが、私のピアノに押し寄せてきて、私も「伝えたい」という気持ちになり、おきゃくさんのわくわくした期待感が集まって、、、、このときもものすごくリラックスして演奏を心から楽しむことができて、幸福感でいっぱいになりました。

私は、言葉以外に「伝える」手段をもっている・・音の波で・・・それを誇らしく思った瞬間でした。

 

目にみえないからと信じない、なんてどうしてそんなことを思っていたのか、いまでは不思議です。音楽こそ目に見えない・・・人の心も目に見えない・・・

音楽の話はときどき書きたいな〜と思っています。ではまた。

私の友人シリーズ:ブログの先輩

ブログの先輩、百崎くん。中学生からまちづくりブログをやっている。
今年のミニヨコハマシティで2位以下に圧倒的な差をつけ、市長に当選した。

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小学4年生のとき、知り合った百崎くんは、大人の中にいるのが好きなのか、いつも私たちのそばを離れないこどもだった。

つづきジュニア編集局の会議がある日は、私がハウスクエアの事務所から東京都市大へ、文房具や資料を運ぶためを私が1時間前にくることを知っていて、彼は同じくらい早く事務所に来ていた。そして、必要なものを一緒に運んでくれた。

会議が終わって大人が振り返りなどをして次回の打ち合わせをしているその場にも気が付くとずっと横にいて、「もう帰らなきゃ、時間遅いよ」というまで、帰らない子どもだった。なにかを学んでくれていたならいいんだけど。

中学生になるとSNSなどで世界をさらに広げて、名刺交換した人とSNS友だちになり、中学生とは知らずにイベントに招待され、気が付くと青年会議所ノマド講座にただ一人中学生が出席してたり、千葉で行われるサミットの会議(平日夜)にいったら、現地で私とあったりしてびっくりしたり。大人の中にひとりで飛びこんでいくので少々心配になることもあった。

13歳のときのももちゃん↓

www.townnews.co.jp



高校生になると、スマホの操作や映像編集などが得意なので、私たちは彼に依頼するようになり。
また、百崎くん一人で私たちのミニシティ・プラスの代表として会議いってもらっても全く問題なく、というか、その方が大人がいくよりもかえってよかったりするくらいに成長した。

本当にたのもしい。
現在は、私は彼に頼りすぎてて、用事をいいつけすぎてて、本当に申し訳ないという状態。

年末に、事務所のあるシェアリーカフェで忘年会をしたとき、彼も、彼のお母様もきてくれた。そのとき「パソコンの操作のことで、あれこれごちゃごちゃと、ゆうくんに相談したら、〝なにがしたいのかを、簡潔にいって〟とさくっといわれた。そのずばっとした言い方が岩室さんにそっくりだと思った」とお母様。
なんか影響与えすぎちゃってないか、と心配になっている今日この頃である。

あたまの回転がよく、マックもウインも使いこなし・・・。

先日、一緒に会社を立ち上げない?といったら「それはまだ自分には荷が重すぎます」とやんわり断られてしまった。私はそろそろ彼の部下として働きたいのだが。


ももちゃんはブログの先輩。
ぜひぜひ彼のブログもみてみてくださいね。勝手に将来を期待しています。

momoyoko.blogstation.jp

やっちゃえ、コミュカフェ4お店の設計どうする?

カフェをやる、と決まったときに、絶対に頼みたいと思っていたのが、建築家で空間デザイナーの遠藤幹子さんです。
↓ 絶対にリンク先をみたほうがいいよ!

mother-architecture.org



遠藤幹子さんは、関東学院大学の中津秀之氏に紹介してもらい、私が事務局長をしているこどものまち「ミニヨコハマシティ」の空間デザイン?をしてもらったり、こどもたちのお店のキットをつくってもらったり。


また遠藤さんが講師をされている、桑沢デザイン研究所という専門学校の生徒さんと一緒に、横濱良品館の販売キットのデザインをしてもらったりしていました。

正直、大きな仕事をされている方ですし、私たちのようなお金のゆとりのないカフェの設計をお願いできるのかどうかわからなかったのですが、絶対にお願いしたいとメンバー全員が思っていました。

遠藤さんにお願いしてみたら、「やらせてください」とお返事。
みんなでばんざ〜〜いと喜びました。

遠藤さんにお願いできる、となったとたん、あれもこれもと夢が膨らみすぎて、「最初はこのくらいまでしかできませんよ」と。そ、そのとおりです・・・。でもでも私たちが夢を語り、イメージだけ、わくわく感だけで実態のないブレストをしたあと、遠藤さんから、こんなんでどうでしょう、と模型が!!

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一瞬で気に入ってしまいました。みんなで眺めてすてき、すてき。。

カフェ空間とオフィス空間、事務所空間、まんなかのウッドデッキ、個室など、思い描いたとおりになっていたのです。

シェアリーカフェという名前にもコンセプトにもぴったり!

模型をみて、実感がわき、毎日毎日、みんなで会議、食べ物の試作、などをする日々が続きました。

いろんな角度からの模型の写真です

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それらのようすは、また・・・・・。

シェアリーカフェ

ユニークすぎるお店の備忘録〜都筑区・中川商店街「和菓夢」

私が活動しているNPO法人の事務所があり、運営しているシェアリーカフェがある、中川駅の商店街に、かつて「和菓夢(わかむ)」という、ただものではない、おにぎりとおだんごのお店がありました。

お団子やおはぎなどの甘い物が半分。おにぎりや巻物などが半分。
そんなに大きなお店ではないのですが、焼肉巻、からあげ巻などもあり、リーズナブルで手作り感があり、どれもおいしかったんです。

巻物は、切らなくていいよというと価格より、20円引き。

イベントのときに、おにぎり100個とか、巻物50個とか頼んでいたのですが、クールな若い店長(たぶん20代)は、「100個ですね」と、そんなにうれしそうでもなかったので、あんまり頼むと迷惑なのかな〜とNPOスタッフと話していました。

ただものでない、と思っていたのは、お店に掲示してあるメッセージでした。

あるとき
「大家さんが家賃を値下げしてくれたので、おにぎりの値段を5円下げることができました!」と書いてありました。

 ええ〜〜。1個80円という安さなんだから、75円にしなくってもいいんじゃない?と思ったのは私だけではないと思います。

またあるときは
プラズマテレビを買いたいので、がんばっています」とのメッセージ。
 がんばれーーと、心の中で応援したものです。

また、お月見の日にお団子を買いにいったときには、
「なりたいもの:ハードオフの店長!」と書いてありました。
 現在のお団子やの店長はやめて、ハードオフの店長になりたいのか・・・と驚いたものです。

そんなある日、店頭にネットにつながっていると思われるパソコンがおいてあり、検索の画面が(Yahoo!だったかな?)出ていました。
「検索できます。どなたでもご自由にお使いください。ただしエロ画像検索しないように」とのメッセージが。こんな商店街のまんなかで誰がエロ動画検索するんだ〜とつっこみを入れたくなりました
PCがおいてあるところの写真がでてきました。
PCの下のショーケースには実はおにぎりや巻物が並んでいるのです。

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そんなつっこみどころ満載の和菓夢でしたが、閉店してしまいました。(号泣)
お店の写真をちゃんと撮っておけばよかった・・・・。

彼は、ハードオフの店長さんになれたのかな?

中川商業振興会のHPは当法人、I Loveつづきが管理、更新しています!
ぜひごらんください!

中川駅前商業地区振興会 | なかがわえきまえどっとこむ

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やっちゃえ、コミュカフェ3ロゴどうする?

カフェの名前がきまったら、今度はどんなロゴにするのかを決める・・・。

私たちは新鮮な目をいれるために外部のデザイナーに依頼することももちろんあるのだが、今回ばかりは、自分達のカフェ、ということで、当団体の誇る副理事長川本久美子にお願いした。

副理事長は東京芸大日本画卒である。最初にNPO活動で知り合ったころ、「へえ〜絵を描くの、うまいんだね〜」とかいって感心してたら、なんと芸大出だった。当NPOの宝ものである。

大きなコンセプト

★心地いい空間をシェアする
★いつもなにかがうまれる場所
★地元コンシェルジュ常駐カフェ

などを踏まえて、ロゴ案を出してもらった。

横濱良品館との連動もあるかなとそれらを入れたバリエーションも出てきた。

横濱良品館

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川本久美子デザイナーによるロゴ案4つ。

1案

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2案

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3案

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4案

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正直意見はばらばらで、お花のやさしいロゴも良かったけど。。。

でも男性メンバーのあまり甘くなると名刺に書くのがいやだ、という意見があり、空気と電波がひろがっていくイメージの3案に決定した。そのあと色のバリエーションをもうひとつつくってもらい、いまのロゴ2パターンが完成した。3の色も採用!それがメインカラーとなった。

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さて、今度は空間デザインだっ。続きはまた・・・・。

シェアリーカフェ