音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン

横浜都筑のまちでコミュニティカフェやったり、音楽したり。こどもたちとまちづくりしたり。

考えるということ、それが好き

 ハードディスクがいっぱいになりそうで整理していたら、大学院に通っていた(2019年4月から3年間)ときの宿題が出てきた。

 人間学の授業で提出した、野生で育った双子のアマラとカマラの話を読み、人間とはなにか教育とはなにかを考える課題だった。

 教育は人を幸せにするのか というタイトルで書いているのだけど、思うことは今もかわらず、私と貫いていると思う。

自分自身の備忘録のためにここに残しておこう・・・。

タイトル:教育は人を幸せにするのか

 私は昨年「アヴェロンの野生児」を読んだ。野生児が発見され、多くの人が、なんとかヴィクトールと呼ばれた野生児の少年が人間の世界で暮らしていけるように「教育」を試みたけれど、結局最後は「教育」を諦めてしまった。たとえばヴィクトールは、ゆでたジャガイモが好きで、ゆであがるのが待てなくて、そのことを学習しないで毎回やけどしていた。やけどしないようになるまでだけに何年もかかったという。アマラとカマラについては今回はじめて詳しく知ったが、ヴィクトールよりももっと人間の生活には慣れず、はやくに亡くなってしまった。

 彼らが突然捉えられ、いままでの暮らしからまるで違う生活を無理矢理強いられ、彼らにとって苦しい結果になってしまったことに、私はとても落胆してしまった。食べ物を探さなくてよくて楽になったとか、敵におびえなくてよくなり、落ち着いて眠れるようなったとかという状態が少しでも彼らに感じられたのではないかと思ったからである。しかし残念ながらそれは私たち側の勝手な想像だったのである。

 野生児を「教育」しようとした人達は、一方的にこちらの都合で、私たちが「善い」と思うこと、ここでは人間の暮らし、暮らしていくために必要なことを教え込もうとした。この教える側が思っている「善さ」は、教えられる彼らにとっては「善い」ものではなかったのである。彼らにとって、人間として暮らしていくことは善いものではなく、幸せなことではなかったのである。これは私たちの現在の社会に置き換えても、深く、簡単に解決できない問題である。

 たとえば北朝鮮に暮らす人はどうなのだろうか。戦時下の日本の教育はどうだったのか。「善い」と信じて教育していても、必ずしも善いとは限らない。誰かの都合で善いと教育された人がその善さを信じてまた、誰かに間違った教育をしていくことも起きる。

 さらにもうひとつの観点として、一方向にしか向いていない場合の教育が、本当に相手に伝わるのかという問題も大きい。野生児への教育に関して、相手のことを理解しようとする努力があったらどうだったのだろうか。私たち人間は相手に共感することができる動物である。ひとつの提案として、逆に彼らが住んでいた場所に行き、彼らの暮らしをすこしでも理解しようとして、そのことが彼らに伝わったらどうだったのか。ただこちらの世界のことだけを理解しようとしてもらうのではなく、彼らの世界をもうすこし理解する必要があったのではないか。かれらにとっての「善さ」を理解しようとしたとき、野生児も私たちを理解しようと歩み寄っては来たのではないか。これは妄想である。

 おおかみに育てられた野生児、という言葉から日本のアニメ「おおかみこどもの雨と雪」を思い出した。この物語では「花」という女の子がおおかみおとこを好きになり、2人の子ども「雨」と「雪」を産み、育てる話である。2人の子どもはおおかみと人間に変化することができる性質をもっていた。思春期になり女の子「雪」は、おおかみであることを隠し、人間の男の子を好きになり、人間として暮らしていこうとする。一方男の子「雨」は、人間として家族と暮らしながらも、次第に山でおおかみとして生きるようになり、山のボスとなって帰ってこなくなった。2人はまったく別の道を歩む。もちろんフィクションの物語ではあるが、アマラカマラと重なるものがあった。おおかみこどもの女の子はおおかみの気持ちのわかる人間として暮らす。おおかみこどもの男の子は、人間の気持ちのわかるおおかみとなって山で暮らす。どちらが厳しい暮らしなのか、どちらが豊かな暮らしなのか、は比べられるものではないのである。

 アマラとカマラは、もしかしたら生まれたときに人間に捨てられてしまったのかもしれないという疑惑がある。そういう罪悪感からなんとか時間を巻き戻したいと人々は思ったのかもしれない。しかしこちらが善いと信じることをただ一生懸命教えるということが、本当に教えられる側にとって善いことなのかを考える必要がある。学習には双方の共感が得られなければただお互い苦しいだけなのである。

論文をこども環境学会で発表