音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン

横浜都筑のまちでコミュニティカフェやったり、音楽したり。こどもたちとまちづくりしたり。

プロデューサーという仕事(おまけにローディの仕事もね)

私が尊敬する仕事に「プロデューサー」という仕事がある。ディレクターとどこが違うの?とかいろいろあると思うけど、それはウィキペディアにまかせるとして、ひとつのプロジェクトの長になる、その全責任を負う、というのがプロデューザーだと思う。

スポンサーを決めたりとか、予算の使い方とか、プロジェクトの方向性とか、誰を起用するとか、そういうことすべてに気を配り、ときには重箱の隅をつつくような細かいことまで注意を払っていながら、俯瞰できる、そんなことができるのが、すばらしいプロデューサーだ。

その昔、ポンキッキのクリスマスショーでキーボード演奏する仕事をしていたのだけど、そのプロデューサーの方に感動したエピソードがある。

クリスマスショーには、舞台に立つ、もちろんガチャピン、ムックの他、タレントさん、私たちのようなコンサートの演奏を支えるミュージシャン、ローディ、 振り付け師(このときにはラッキー池田さんだった)もいる。ステージセットを組む大道具さんや、照明、音響のスタッフ、楽屋の面倒をみて、ケータリングに 気を遣う裏方の方達、スタイリスト、ヘアメイクさんもいる。当日グッズを売るスタッフなどもいる。

f:id:akikoiwamuro:20160525200644j:plain
*私はショーのあと、落ちていたムックの毛を収集していた・・・(笑)


たぶん総勢100名近くのスタッフがいるのだが、クリスマスシーズンに数回行なった、ショーが終わった打ち上げのとき、プロデューサーの方は、その100人ひとりひとりの名前を呼んで、行ったことをねぎらったのだ。全員フルネームで、間違わず。

「岩室晶子さんには、トナカイの格好までしてもらい、キーボードを演奏してもらいました、ありがとうございます」というように。

うれしいよね、ひとりひとり名前を出してくれるということは。頭よすぎる、記憶力すごすぎる、そしてよく気が付く。

感動したのはたぶん私だけではないと思う。私もイベントの総監督をするときには、それを見習いたいな〜と思いながらなかなかできないでいる。
もちろん感動したお仕事ぶりは、他にもあるんだけどね。



某クイズ番組の音楽をやらせてもらっていたときにも、本当に凄腕プロデューサーとお仕事させていただき、キレキレな進行を楽しんだ。
その方がスタジオに入っただけで、空気感が変わる。ぴりぴりするのではなく、キレッキレないい感じ。私はしゃきしゃき仕事するのが大好きなので、仕事のしかたもずいぶん学ばせてもらったと思っている。


さらに・・・・「スーパーローディ」について。
感動した仕事をもうひとつ。ローディーの人に感動したことがある。
ローディは普通は、ギターならギター、ドラムならドラムというように1楽器について1人の専門家がつき、それぞれの楽器の面倒をみるのが一般的だ。
しかし、あるとき「スーパーローディ」と呼ばれる人がついてくれたときがあった。
エレキギター、ベース、キーボード、ドラムという4人のバックバントにたった一人。しかもそのときは、女子だった。その人がすごい。

ギターやベースのチューニングをする、ドラムのセッティングを手伝い、チューニングする。もちろんキーボードもシールドが絡まないようにきれいにセッティングしてくれる。

本番中私が、音源の調整をしようと振り返ってラックをいじろうとした瞬間、彼女のペンライトが調節部分のつまみ部分を離れたところから照らしていた。

休憩があり、次のステージにあがると、次の曲を演奏するプリセットにセッティングしてあった。私はなにも説明してもいないのにすごい!

コンサートのあと急いで着替えてステージに戻ると、キーボードはきれいにケースに入り、しかもいちばん運びやすい形で台車に載せられていた!!もちろんそれはキーボードだけではなく、ドラムも・・・すごすぎる。

スーパーローディのギャラは私たち演奏家より高いらしい、と聞いた。でも4人分をひとりでやる、しかも完璧にやるのだから、当たり前だな、と思った。

 

あの彼女はいまどうしているんだろう。華奢な体であんなにすごい人にはなかなか会えない。しかも楽しそうに仕事していた。

裏方でもあそこまできわめると、そりゃー楽しいだろうな。


*音楽のプロフェッショナルについてはたくさん種類があるので、また書きますね〜♪

楽しいニュースがまちをつくる!

私がまだ10代で名古屋にいた頃。ベストテンという音楽番組をみていたら、ライブハウスのような会場からの中継で、めちゃめちゃ盛り上がっているバンドが演奏していた。とても楽しそうに、おきゃくさんもバンドも。
「人気のバンドなんだな〜」と思った。それがサザンオールスターズだった。

 そののち、何かのときに桑田さんが、あれは盛りあがってると見せるための「サクラ」だった!と話しているのを聞いて、びっくりした。裏切られた〜という気持ちではなく、そうやって見せかけたことが成功に導いたのか、それだっ!って思った。
結果的に、今もずっと売れているんだから、多くの人に聴いてもらえるなら、どんな手段を使ってもありだな、と思った。

すごくまちづくり的にも参考になる。

すてきなニュースが頻繁に流れるようなまちは、そのまちの人も、他の地域の人から見ても、「いいまちだな〜」と感じるだろう。そして、すてきなニュースに惹かれて、共感したすてきな人達があつまり、さらににぎわうまちをつくっていく。プラスのスパイラル。

私はそんな、すてきなニュースをつくる仕掛け人でありたいんだ。

楽しいイベント、おもしろいプロジェクトをしかけて、それをニュースにしていく。逆に言えば、ニュースになるくらい、楽しく面白いことをしかけていくことが、すてきなまちをつくっていくのかもしれないと思っている。

三浦市フィルムコミッションで成功している。関係者にお話を聞く機会があったのだけど、まちの人達は、自分たちのまちを、映像を通して観ることで、自分たちのまちに誇りを持っているのだそうだ。映画になれるまち。それはすてきなまちだ、ってね。

映画を見て、感動した人達が、ロケ地としての三浦に観光にもきてくれる。

微妙に昭和で、シャッター商店街になっていく三浦を、逆手に取り、昭和がのこっているからその時代のロケができる、シャッター商店街だから、店の作り替えもできるし、人もすくなく撮影しやすい、など、マイナスをプラスに変えた、すばらしい例だ。課題をプラスに解決する。
とってもクリエイティブだ!

明日(あ、もう今日か)の日曜日は、横浜市新市庁舎のひろばのついて考えるシンポジウムのパネリストになっている。新しい市庁舎は低層部を市民が気軽に集えるひろばにしたいそうだ。
横浜のまちのすてきなニュース、たのしいニュースが発信できる、そんな情報発信の場としてのひろばであって欲しいな。

今日、急に思いたって、来てくれる人がいても大歓迎!

f:id:akikoiwamuro:20160522005256j:plain

f:id:akikoiwamuro:20160522005330j:plain

 

菓子折もって、ヒアリングや調査にくるのやめない?!

もう時効だからいいかなと思って書きます。イラッとくることがある。

昨年度もたくさんの方達が、私のところにインタビューやヒアリングに来てくれた。また、講師の依頼もたくさんあった。

私はフリーランスで音楽の仕事をしているので、仕事を依頼されるときには、ギャランティの話は最初にする、それが常識だ。

でも、NPO?あるいは行政の業界?は、ギャラの話をあまり最初にしないようだ。それに違和感を感じながらも、常識として、大人である私の時間をたとえば1時間以上とって、活動の話やアドバイスを聞いたりするのだから、ギャラは発生するだろう、と思っていると、帰り際に「たいへん勉強になりました。ありがとうございました」とおおよそ3000円くらいの菓子折を渡されたりする。(当法人のカフェでお菓子売ってるし。売り上げに協力してくれよ〜と悲しくなる)

そんなことがけっこうあるので、私は依頼があったときに、まずは先に聞くことにしている。

「すみません、これはお仕事ですか?」と。

そうすると、話の分かる方は「はい。大変少なくて申し訳ないのですが、***円をお支払いさせていただきたく・・」などとなる。

 

しかし、中には「ええっと、それはどういう意味ですか?」と言われる方もいる。

そうくると私は単刀直入に「ギャランティは発生するのか、という意味です」と言う。そこで初めて話が出るのだ。


ボランティアだから、受けないといっているわけではない。でも何で先に説明しない?

それで、菓子折は持ってきたりする。

えーーーと。
1時間お話して、3000円でもいただければ、団体の収入にいれられるんですよね。菓子折買うお金があったら、3000円ください、といいたくなる。

ましてや、カフェをやっているので、その3000円があったら、カフェで売っているお菓子を購入して、私にください。

f:id:akikoiwamuro:20160518181832p:plain

f:id:akikoiwamuro:20160518181910p:plain

カフェで用意できる3000円程度のお菓子。参考資料(笑)

横濱良品館



そういう方に限り、カフェなので、お茶を、、、というと、「いいえ、だいじょぶです」というわけ。

私は、大丈夫じゃないよ、ただで出すなんていってないよ、注文しろってことだよと、心から思うが、大人なのでそれ以上はいわない。打ち合わせはカフェなのにお茶なし。ホテルの1000円の珈琲では無く、1杯400円だよ。なんでそれが出せない?!

もちろんすべてがすべてじゃないよ。お互いにギブ&テイクだったり、学生さんだったり、理由があれば全然お金とか言わないし。

でも、そういうの大概、お役所の方ですよね。「国」の方、「市」の方もありました。
私は黙っているのはいやなので、今後もおつきあいする相手であれば、予算つけてください、ということにしています。

そこでシェアリーカフェでは最低1時間3000円の料金を設定してます・・・。

つうかさ、なにか人にものを頼むときには、ちゃんとギャランティの話をしてくださいよね。みんな!!はっきりいおうよね。
私は一生懸命やりますよ、これがライフワークなんですから。

今日は吠えてみました!(笑)




私の友人シリーズ〜数奇な運命をたどっている、NY在住「まうみ」さん

私たちが最初に出会ったのは、名古屋で私が音楽活動していたとき。18ビートジャズのインストバンドをつくり、ライブハウスに出まくっていた頃だ。

ジャズピアノを弾きたいので教えてほしい、と彼女に言われ、誰にも教えていなかった私はしぶしぶOKした。それから、私の実家で毎月1回ほど、ジャズピアノを教える中、なんでも話せる大切なトモダチの1人になっていった。彼女は忍者屋敷のある伊賀上野からはるばる、私の実家の名古屋、天白区まで通っていたのだ。

f:id:akikoiwamuro:20160516144700j:plain


私がいらなくなったエレピは、まうみさんがNYまでもっていって、今も活躍しているらしい。


話を聞く中、彼女が高校生のとき、家業がつぶれ、サラ金業者の執拗な脅迫電話の相手を一手に引き受け、逃げる父親の代わりに相手をしていたけれど、日本刀を持った連中に追いかけられたり、家の物すべてに赤紙が貼られて持って行かれたり、終いには借金のカタにと危うく売られそうになったりと、散々な目に遭ったこと、学校に戻れという教授の熱意で再び音楽の勉強に精を出したこと・・・・。

その後競売されてしまったグランドピアノを必死に探し出し、買い戻し、それを置く部屋まで用意してくれた、男性(当時彼女を慕っていた)の家に転がり込んだものの、その男性を恋の対象として見ることができず、なんと、その男性のいとこに無理矢理「わたしと結婚して!」と迫り、電撃結婚して伊賀上野の山奥に住んでいることを知った。

彼女の家のある伊賀上野は、彼女がいたときはまだ土葬。水道は引けて無くて、速達も局留めだった。私はクロネコヤマトを使って手紙を出したっけ。

f:id:akikoiwamuro:20160516143950j:plain

f:id:akikoiwamuro:20160516144013j:plain

f:id:akikoiwamuro:20160516144029j:plain
山登りが好きだった私は、まうみさんを誘って穂高などにもいった。
まんなかの写真は山登りの前後で高山によったときかな?
すべて左側がまうみさん、右が私。



その後、男の子2人に恵まれ、伊賀上野での暮らしが中心になる中、ホームステイに来たアメリカ人男性(彼女より8才年下)と、「これは湯飲みです」などと片言の英語と日本語でやり合っているうちに、この人はわたしのソウルメイトだと直感し、3歳と4歳の幼児(男の子)を連れて、家を出てしまった。あまりにアバンギャルドな行動に、許容範囲の広い私もぴっくり。

私は当時心配して、彼女の恋人に会いに、京都まで行ったことがあった。彼女の恋人の父親が、アメリカの大きな会社の副社長だと知って驚いた。しかしそんなこととは関係なく、彼らは実にシンプルな生活をしていて、2人は似合っていた。

それから何年も会っていなかったのに、10年前くらいに一度、彼女たちのいるニューヨークに出かけて、泊めてもらい、ゆっくり話した。彼女の家には今も、私から購入したエレピがあった。彼女はピアノの教師をしていて、カーネギーホールで演奏することもあるらしい。彼女の息子たちは、お父さんが急に外国人になり、急にアメリカの学校に行かされて、そうとうグレているんだろう、と思ったら、すてきな優しい青年になっていた。

人ってなにが起こるかわからないんだ。

かわいい男の子が2人も生まれて、ジャズはやめてもう田舎にこもるのね、と思っていたら、ニューヨークまでいってしまい・・・。

9.11の事件があったとき、彼女はバスの窓から真正面に見える、ツインタワーのようすを見てしまったらしい。そのショックでしばらく呆然とした状態が続き、スーパーの駐車場でカージャックにまで遭ってしまった。

 

それから自分にもこの先どんなことが起こるかわからないのだからと、これまでの自分の人生をちゃんと書き残し、それを息子たちに渡そうと決意し、いきなり取り憑かれたように書き続けた文章は、いつしか小説のようになった。そのことを聞いたわたしは、「すばる」の新人賞に出してみたらと言ったら、賞はとれなかったものの、最後まで選に残っていた。やっぱり普通の人じゃないな〜と思った。
 
その後、ブログも書き始めたのだけど、東北の震災以来、特に日本のことを書くようになった。
私の横浜の知り合いが、よくFacebookに彼女のブログをシェアしているのをみて、知り合いなの?とびっくりしたけど、そうではなく、記事を評価しているのでシェアされているらしい。

またいつかニューヨークに行って、早起きしてリスを眺めながら、ベーグルの朝食をとって、ゆっくり話したいよね、まうみさん。まだ大阪弁抜けてないの??

f:id:akikoiwamuro:20160516144237j:plain



骨がありすぎてついていくのが大変な、友人のブログです。

blog.goo.ne.jp

なまけものディ

世の中は母の日だった。私の母の誕生日がまもなくなので、私からのプレゼントはこれから。

f:id:akikoiwamuro:20160512215132j:plain
写真は以前の母の日にあげたネコーシカ。



今日は私の母のことを少し書こうと思う。

私の母は中学のとき、教育実習に来た父とつきあうようになり、高校を卒業して駆け落ちするように結婚した。だから結婚式もしてはいない。指輪も見たことがない。それだからだろうか、私も同じように結婚式や指輪にはまったく興味がない。

母はとても高校での成績がよかった(ものしりで、あだ名は百科事典だったそう)ので、家族の中で唯一大学に行くように勧められ、試験を受けることになっていたのに、試験当日、すっぽかしてしまったらしい。そして父と駆け落ちしてしまった。

私は若い母がすこし自慢だった。私が小学3年のとき、ようやく27才。まちで買い物していると、母が男の人にナンパされ、私があとからついてくると「なんだ、子持ちか」といわれ、私は申し訳なく思った。

自由な感じの母だった。
基本的に明るかった。(今も同じ)

ときどき朝起きてこないので、心配になると「今日はね、なまけものディなの」と明るく言われた。そうなると朝ご飯も用意されないので、私と弟は1000円札をもらって一日分のパンを買いに行った。

「なまけものディ」の母は、どうしてるかというと、一日中ベッドでごろごろとビートルズを聴いながら、好きな本を読んでいたり、部屋を暗くして、ラフマニノフを聞いていたりしたものだ。

あるとき、どうして「なまけものディ」があるのかと聞いてみたところ、「だってお休みしようと決めないと、一日中休める日なんてないんだもの」と母。

トモダチに、なまけものディってあるの?と聞いたところ、「ないよ、そんなの」といわれたっけ。

私は母に不条理な叱り方をされたことがない。
「あなたは間違えることはないのだから、思った通り進みなさい」と言われた。そのことは、ひそかにずっといままでの私の自信につながっているんだと思う。

迷ったときには、心に言い聞かせてきた。
私は、大丈夫って。そう母もいっていたって。

私もなまけものディをつくろうかな。

 




私は小学生のとき、家を建てた!

私の家族は、私が3才くらいのころから父方の祖父母が住んでいた平屋市営住宅の敷地内に、勝手にプレハブ住宅を建てて住んでいた。もちろんトイレも台所もなく、トイレにいくときには、靴を履いて祖父母の家にいって借りていた。その小さな一戸建て不法住宅に家族4人が住んでいた。

市営住宅に住んでいると、新しい市営住宅の抽選で有利だったから、そんな苦し紛れのことをしていたのかもしれない。母は、比較的近所に新しく建てられたばかりの二階建市営住宅に入るために、何度も私と弟を引き連れて、市役所に懇願に通ったということだった。

入居者の家賃を集める仕事をする、という条件で、私たちは晴れて、二階建長屋の市営住宅に入る事ができた。余談だが、小学生になると私は30軒分くらいの家賃を集めるお手伝いをしていた。家賃はそのころ1ヶ月2800円くらいから10000円位まで収入に応じて、まちまちだった。それで豊かさがこどもにもわかってしまった。しかし、それでも2800円の家賃を月末に集金にいくと、「郵便局にいってないから、来週来て」などと言われ、次週にいってもまた同じ回答だったりしたものだ。お金がないのかな、と子どもながらに思った。市営住宅に住んでいた人達はみんな、決して裕福ではなかった。

さて小学校4年生の夏休みだったと思う。
角の広い庭付き市営住宅だったのをいいことに、祖父母の家に建てていたプレハブ住宅を、勝手に移築することにしたのだ。たぶん祖父母の市営住宅の庭にあったときから違法建築だったと思う。祖父母の市営住宅が建て替えることになり、プレハブの行き場がなくなったんだ。

これじゃないかなと思う。こんな感じの建物だった。

プレハブ住宅の原点「ミゼットハウス」が発売50周年を迎えます|ニュースリリース|企業情報|大和ハウス工業

写真ふるっ!

f:id:akikoiwamuro:20160508230705j:plain

父は小学校の教諭だったので、夏休みは小学生の私と同じだった。
夏休みに入ったら、父と私で、家の土台作りがはじまった。固い地面を数十センチ彫って、穴あきブロックを2段に積み重ねて置く。まっすぐにするために、そして水平をとるために四隅に糸を張って、そのヨコにブロックを借り置きする。空気の泡(水平をはかる)が真ん中にくるように並べるのだが、これが簡単にはいかなかった。毎日毎日水平にするためにブロックを並べる作業。素人の作業なので、1週間以上そんなことをしていたような気がする。父の弟さんは大工だったので、(もっと言えば祖父は船大工だったらしい)ときどき仕事の合間に、家の土台づくりを見に来て、「これはだめだ、やりなおし」と何度もやり直しをさせられた。途中で雨が降ったりして、また変わってしまってやり直し。とにかく土台づくりに苦労した。

ようやく土台が出来たら、家の部品がトラックで運ばれてきて、あっという間に家は建った。大工の弟さんがいたのもあったが、たぶん数時間で建ったと思う。このとき私は「家づくりは土台なんだ!」と知った。すごい体験をしたと思う。

それからその家は私が18才になるまでびくともしないで建っていた。台風が来て床下浸水したときにも穴あきブロック塀の土台の下に水は入ったが大丈夫だった。

小学生のときに家を建てた人っています??
たぶん私くらいじゃないか?と自負してるんだけど。

あ、ドイツのミニミュンヘンにいったとき、小学生が家建ててたな・・・

f:id:akikoiwamuro:20160508231102j:plain



あの夏休み、汗だくになって土台を作った。今もすぐに心は飛んでいくことができる、鮮明な思い出だ。

猫に関するエピソード1〜大事なことはみーんな猫に教わった

私は猫好きである。
あまりに猫好きすぎて、カルカンのCMにも出演したことがある。

とある2月22日(ニャーニャーニャーで猫の日らしい)の猫の日のイベントにいって、その日のアンケートの「カルカンのCMに出演できますか?」という項目に丸をつけたら・・・。制作会社からアプローチがあって、なんとカルカンのCMに出演することになった。

そのときにスチールがこれ!(古いっ)
マルチレコーダーが・・・これは私の自宅なので。

f:id:akikoiwamuro:20160501182729j:plain


当時、ニュースステーションの時間などにカルカンのCMが流れたので、知り合いから次々電話かかってきたな。



この猫「たった」は、二子玉にあった「ねこたま」で行われた日本猫コンテストで準優勝したこともあった。(基本来場者人気投票のコンテストだった、芸はできないし)

f:id:akikoiwamuro:20160501182817j:plain



私は悩める20代後半のとき、猫に救われた。

「私はなんのために生まれきたのか?」
「私が世界に役立つことなんてあるのか?」ということを悶々と考え続けていた日々。

そんなある日、猫をみていて、思ったんだよね。猫なんてなんの役にもたたない(同じペットでも犬はとっても役立つのに)、役にたとうともしていない、ただ存在するだけ。それでいいんじゃないかと。

その頃この本に出会った。
All I Need to Know I Learned from My Cat
大事なことはみーんな猫に教わった

f:id:akikoiwamuro:20160501182853p:plain



本文もすばらしいけど、訳の谷川俊太郎さんの文章がすばらしい!!深い絵本である。

猫に着目したとたん、カルカンのCMも決まったし、不思議不思議。どんなことでも着目のしかた次第では、仕事に変わるんだよね。ちなみにこのCMで私は1日で10万円ものギャラ(当時貧乏音楽家だった私には本当にありがたかった)、猫はカルカン1年分をもらった。

招き猫って本当な気がする・・・。