音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン

横浜都筑のまちでコミュニティカフェやったり、音楽したり。こどもたちとまちづくりしたり。

懐かしのアーノルドパーマー

私の小学校の卒業式のときのこと。
かなりひねくれ者だった私は、ワンピースでなく、パンツにしたいと希望した。

そうしたら、おとうさんが買ってきてくれたのが、アーノルドパーマーの赤と白のパンタロン?だった。お店の人に「小学6年生」と話したんだろうけど、私の身長と体重は、6年生にはみえず、誰よりも小さくて細かった。
だから買ってきてくれたサイズは巨大で、ズボンは胸まで着てしまうくらいの大きさがあった。私は「おと〜〜さん、なにこれ〜〜」と大笑いしたかもしれない。おとうさんはがっかりしていたような。もういなくなってしまった父の遠い記憶だ。

そのパンタロンは、私が高校生になったときに、はじめてサイズがぴったりした。そのころには、すでに赤白のパンタロンは流行遅れだった・・・。

アーノルドパーマーはゴルフやる人が着るだと思っていた。私の勝手な偏見でミュージシャンは、いえいえ特にROCKERは、ゴルフは似合わない、と思っていたので、ゴルフウエアのような服は避けていたし、アーノルドパーマー売り場に入ることは一度もなかったのだけど、先日、きれいな緑色のセーターを探していたら、アーノルドパーマーのお店の前を通って目についたのだ。あった!!ちょうど欲しかった色が。


しかもとてもかわいく、アンブレラのマークも悪くないなと思い、衝動買いしてしまった。

ブランドも、デザイナーが世代交代してるのかな。

お父さんが購入した私が小学生のときから、2つめのアーノルドパーマー
ときどきお店をのぞいてみようかなって思った。
ゴルフはやらないけど。

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はないちもんめ が嫌い

はないちもんめ が嫌い


めずらしく、近所から、はないちもんめをやるこどもたちの声が聞こえてきた。
私もこどものころ遊んだ。記憶にあるのは、3才まで住んでいた家のまわりの風景なので、きっと学校に上がる前の遊びだったんだ。すごいな、まだこの曲、歌い継がれていたんだ〜〜。
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写真は本人ですが、本文内容とは、まったく関係ありません。

私は、はないちもんめが大嫌いだった。何が嫌いというと、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ、となって、誰にする??とひそひそ話合う、、、そして決まった子同士がお互いにとりあう。じゃんけんでとりあうところもあるようだけど、私たちは線を書いてそこからひっぱりっこした。

幼い私は考えすぎだったんだろうか。
はないちもんめで、最後まで自分が欲しいといわれなかったら、いやだな・・・さみしいな。でももしもずっと、呼ばれないで最後の1人になっちゃった子が、傷づいてしまうかもしれないのを見るのも苦しかった。最後の1人に自分がなっても、他のともだちがなってもいずれにしても苦しくなってしまうんだ。

だから、とにかく、はないちもんめやろう、と言われて、できればやりたくなかった。

意味もわからず、歌っていたけれど、花売りが1匁(花の単位でとても軽い)を売っているようすで、値段のまけあいの様子らしいのだけれど、一説では、こどもの売り買いを表しているとか。口減らしのため。あの子が欲しいといわれる、ねぎり、一人取られてしまう。もしも本当に人の売り買いの話だったとしたら。子ども心に怖かったり、この曲嫌いと思ったのも、見えない何かを感じていたのかもしれないな。

外国の子守歌は、お母さんが優しくこどもをあやす物がおおいのに、日本の子守歌は、ちいさな子がお母さんのかわりに赤ちゃんのめんどうをみながら歌う曲が多いので、なんか暗い。はやく寝て!!休みたいよ〜という声が聞こえてくるようだ。


写真は本文内容とは、まったく関係ありません。その昔「Cindy」と名乗って演奏していたころの私。この頃過激な格好をしていて、乗車拒否されたこともあったくらいだった・・・。

ブレーメンの音楽隊の不思議

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元住吉ブレーメン商店街のオブジェがすてき(写真は本文と関係ありませんが)



こどものころ読んでもらった童話とか昔話。あまりにも不思議が多くて、こどもながらに「えええ〜〜っ」とつっこみどころ満載だった。素直に読んだり、そのまま話を聞いている他の子どももいたので、わたしだけかもしれないけれど、「おかしいでしょ!」と思ったこと、それは、今も同じ感覚だ。

まず一番衝撃だったのは、「ブレーメンの音楽隊」だ。
人間のために働いていた動物たち(ロバ、犬、ネコ、にわとり)が、年をとり捨てられそうになり、なんとかしたいと考えていた。そこで音楽が好きだった4匹は、ブレーメンにいって音楽家になろうと思い、旅にでた。
ブレーメンへいこう、音楽家になろう」と歌いながら。

と、ここまでは、当時純粋に音楽が好きで、音楽家になろうと思っていたこどもの私の共感を呼んだ。たぶんテレビでやっていたミュージカルをそのまま放送する番組でみたんだけど、4匹はけっこう歌もうまく、そこそこ楽器もできる設定だった。だから私は心の中で「がんばれ〜〜」と思ったわけだ。

途中、4匹は森の中で休憩しようと思い、場所を探していたら、人間のどろぼうたちのアジトがあり、4匹がトーテムポール的に、合体し、力をあわせて、声の限り叫び、、、それをどろぼうは怪物だと思い、逃げ出す。4匹は、どろぼうのアジトを気に入り、そこで楽しく暮らした、というストーリーだ。

ええっと。。ここからなにを学べばいいんだ?と、私はこどもながらに思ったのだ。おかしくないか?

私がおかしいと思ったことは、
「泥棒がとったものなら、自分のものにしてもいいのか?泥棒ものをとるのも泥棒ではないか」ということだった。
泥棒はかわいそうだし、彼らは改心するわけでもなく、このままではまた、他のまちにいって泥棒をして暮らすことになるかもしれない。いい結論ではない。

それから私が、もっともがっかりしたことは、
「泥棒の財産(金貨など)が手に入ったので、そこですっかり音楽家になるのをやめてしまったこと」だ。
それは音楽家になることを目指していた私の心を大変傷つけた。「なんだよ、お金さえあればいいのか。音楽が好きではなかったのか。夢をカンタンに捨てるのか」ということだ。

ブレーメンの音楽隊の絵本を読んだり、ミュージカルを見て、みんなが楽しんでいるのが不思議だった。私はとてもとてもがっかりしたんだ。

かれらはブレーメンにいってもいないのに、タイトルは「ブレーメンの音楽隊」
ここからなにを学べばいい?

他にもつっこみどころ満載な話はいっぱいある。

女の子ならだれでも夢みる「王子さま」との恋のシンデレラやしらゆき姫だって、たいしておつきあいする時間もなく、王子さまと結ばれるのが究極の目的になっている。でもしらゆき姫も、シンデレラもまだましなのは、王子さまとの出会いがちゃんとある、ということだ。私の知る限り、もっとも不思議でなっとくがいかないのは、「眠れる森の美女」だ。
魔法をかけられて、近くを通りがかった王子が、眠っている王女のうわさを聞いて、助けにいく。数々の敵を戦いながら、勇敢に戦い、とうとう王女のところにたどり着き、キスをすると目を覚まし、そのままお互いに一目惚れして結婚するといストーリー。

ここで、みんな、えええ〜〜っとならない??
いきなりキスされて目が覚めたら、まるで鳥や爬虫類のように、最初にみた人を完全信頼して恋に落ちる、、、そんなことあるわけないじゃん。仮にわたしが王女だったら、もちろん助けてくれてありがとう、となるけど、そのあと、お話したり
いろいろあってから、恋に落ちることもあるかも、ってくらいじゃないか。

だからどっちかっていうと、大人になってから見た、美女と野獣はその逆だから共感できるところはあった。野獣の人柄?がわかって、恋に落ちる・・・。で、それは王子さまだった・・・。
でも私としては野獣のままでもよかった。そのほうがステキな気がした。

みんな、不思議はなかったの?
私はこどもの頃から不思議だった。これは個人的な考えだから、個々それぞれだと思うけど。

そういう不思議に思う気持ちをいつまでも失いたくないな。


本当に好きなことをやっていけ!

こどもが生まれることになったとき、「私は産むからさあ、育てるのはやってもらえないかな」と冗談半分いっていた私。
以前のブログでも書いたけど、生まれるときに仮死出産だったのもあって、風邪を引いただけで、死ぬんじゃないかとびくびくした。体が弱くて、喘息で2回入院したので、夜中にゼーゼーなることがこわくて、中学になるくらいまで、寝るときは私の手をこどもの背中に当てて、息をしているのを確かめながら寝ていた。大事に大事に育てた・・つもり。

だから勉強するのが嫌いで、ずっと外で遊んでいても、私はなにも言わなかった。だって、こどもは遊ぶのが仕事だと思っていたから。(私の個人的な好みで、ゲームは一切買わなかったけどね)、とうとう塾には行かせなかった。

幼いときから、たくさん私の仕事につきあってもらい、深夜のレコーディングスタジオで寝ることもあったよな。バスドラムの中の毛布で寝たこともあった(笑)普通の家庭ではないことかな。

一家全員寝坊してしまい、どうにも言い訳できなくて、小学校をお休みしたこともあった。ごめんなさい。

そんな、カレももう20才になった。感無量だよね。大人になって、とてもたくましくなった。どんな道を歩いていても,だいじょうぶって思える、この確信が大事なんじゃないかなって思っている。

私は母に「あなたは、絶対に間違った道には行かないから、どんなときも自分の判断で進みなさい」と言われてきた。それがずっと私の根拠のない自信になっているような気がする。

それと同じように、私も私のこどもに、「自信をもって、自分の好きなことをしなさい。私はそれを全力で支えるよ」っていいたい。

親は、自分のこどもをもっともっと、自慢していいんじゃないかなって思う。

うちの子はこれができないって見つける必要ってある??「うちの子はこれが苦手で」よくこのセリフを聞くんだけど、ごめん、私には自分のこどもにそんな悪いところが見えなかった。少なくとも私自身の子ども時代よりはずっといい子だったんだもん。

私は中学のとき自分の意思で出ない授業があってボイコットしてたし、高校のときには、お昼まで喫茶店で時間つぶしてからいったこともあった。学校さぼって男の子とLED ZEPPELINの永遠の詩という映画?(いまはプロモーションビデオって呼ぶのかなも)を見に行ったこともあったしね。

好きなことだけをやって大人になり、親になった私だけど、こどもと一緒に過ごした日々は、かけがえのないすてきな体験だった。本当に生まれてきてくれてありがとう、といいたいな。

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今度7月23日にうちのそら氏もギターを弾くことになり、今日も数時間一緒に練習した。楽しい時間だ。私よりもずっと耳がいいので、がんばってほしいものだ。

よかったら見に来て・・・まだまだ修行中だけど、楽しみながら演奏したいな。

7月23日くにたけみゆきコンサート | シェアリーカフェ



どんな組織にいるかなんてどうでもいい。

ここのところ、助成金に応募しまくり、そのプレゼンやヒアリングが続いている。
これからも出せるものは全部出していく。
なぜならNPOが昨年度も大きな赤字だった。なんとかしなくちゃいかないのだ。
できることはすべてやろうと思う。

ヒアリングでのできごと・・・
行政の方から「テーマ型、地縁型のコミュニティがあり、あなたたちはテーマ型だと思うが、自治会や町内会とは連携してないのか?そういうところからお金をもらってやるということはないのか?」と言われた。
私は「町内会でチラシを回覧してもらったり、人手で協力してもらったりはあるけど、お金をもらったことはないです。そういう協力を得られるなら教えてほしいくらい」と答えたのだけれど・・・。

けどさ、テーマ型とか地縁型にこだわるのって、すでにもう古くないか?
私たちは「みんなのまちづくり」で、地域の連携(もちろん自治会町内会、商店街も含む)を評価され、横浜市の人・まち・デザイン賞をもらい、さらにそこからの推薦により、協働を評価され、国土交通大臣賞をいただいた、と自負している。

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コミュニティカフェのいいところって、そういう組織の垣根を取り払って、ひとりの人としてお茶して会話できる気軽さじゃないかなって、帰り道に思った。

そうだ!だからそういうことができる場所を深くつくっていくんだ。

もうすこしがんばるんだ。

みなさんにもっとカフェを活用してほしいなって、切実に思っている。

テーマ型、地域型という概念はあるけど、それはただの分類であって、組織と組織のつきあいなんて私はしてきてない。(私がプレゼンでよく使う図にもちゃんと書いてるけど、それは意識して多くと協働したいと願っているからなのだ)

そんな私が私なりの助成金やプレゼンのしかたについて、講座をやることにします。
8月後半に予定しています・・・。またお知らせしますので、ぜひ興味のある方は来てください。

 

救急車を見る度、思いだすこと。

交差点を救急車が横切ろうとしていた。

救急車を見る度、出産のことを思いだしてしまう。

私は、陣痛が20分おきになっても、まだ、アレンジの仕事をしていた。出産したら、しばらくできないな〜と思っていたから、ぎりぎりまでやっていたのだ。

5分おきになったので、病院にいくことにした。そのときにはもう死にそうにお腹が痛かった。

着いたのは24時すぎ。
個人医院だったので、当直の若い看護師が、対応してくれた。私、今日がはじめての夜勤なんだ〜と明るくいっていた彼女が、明け方慌てて「赤ちゃんの心拍が止まった!たいへん、先生を呼ばなくちゃ」なにがなんだかわからないうちに、うちの彼は書類にサインをし、私は分娩台からすぐ横の細い手術用のベットにまっぱだかのまま、歩いて移動し、背中に注射を打たれて、帝王切開となった。
赤ちゃんを取り出すことが急務で、あまりに慌てていたので、注射をしてすぐお腹を切ったので、切る感覚がわかったほどだ。朝6時頃だったかな。
気が付くと、看護師が何人も来ていて、みんな慌ただしく動いていて話しかけることもできない。
赤ちゃんが生まれたのかどうか、聞くこともできなかった。というか、私は「赤ちゃんは死にました」といわれると思ったので、聞くのがこわかった。みんな私にいいずらいのだ、きっと。そう思った。
救急車呼びます、という声が聞こえて、「あの〜赤ちゃんはどうなったのでしょうか」とおそるおそる聞いたら、「大丈夫、生きてます」と言われた。救急車がこなくてこなくて。
ようやくきたら、救急隊員が「保育器がなくて、聖マリアンナにとりにいってから来たので遅れた」と話していた。運ばれる前にちらっと保育器に入っている色の悪い(紫色?)の赤ちゃんを見た。
お医者さんから、「15分心拍が止まったので、脳性麻痺などの恐れがある」と説明を受けた。淡々と。「死んだわけじゃない」私は思ったっけ。

それから私は病院で麻酔を入れてもらい、うとうとしたり、また痛みで起きたり。臨時のベットだったので、私が1日中寝ている間に3人もの出産が間近で聞こえてきた。

しらなかったのだけど・・・
救急車で運ばれるときに、出産した病院に、その手配料10万と行く先の大病院に10万もっていくようにと言われて、うちの彼は言われた通り持って行ったという。私はあとから激怒しそうだった。なんで20万も余分に払わなくてはいけないのか。救急車呼ぶの当たりまえだし。もう時効だからいいだろう。もう20年前の話だから、いまはそんなことはないだろう、と思うけど。

溝の口イトーヨーカドー前の○○産院から、藤が丘の大病院へ。藤が丘の病院も封筒に入れた10万を「○○医院からです」と言えと医院から言われたとおりにうちの彼が言うと、そのままうけとったらしい。それは誰のものになったんだろう。

私だったら、、、払わない。でも、こどもがやばい、わたしもお腹を切ってて、うちのは動揺してすぐに銀行でお金を下ろしたらしい。しかたないこととはいえ、弱みにつけこんで必要の無いお金をとるなんてゆるせない。

*********

私はそんなことも知らずに、個人医院で麻酔を打ってもらったりしながら、入院5日間。天井をみながら「これは誰のせいでもないのだ。誰かをせめてはいけないのだ」とまったく頭の中は真っ白だった。

6日目に退院できて、ようやくこどもに会いに藤が丘にいった。
未熟児の並ぶ、保育器の中で、10ヶ月たってうまれたうちのこどもは、元気そうに泣いていた。検査のため、毎日注射していたので手の甲が針のあとでいっぱい。1ヶ月後に何事もなく、退院した。なんてラッキーな子なんだろう。

障がいが出る、と言われ続けたので、その後もなにかあるとむちゃくちゃ心配したけど、喘息が小学校あがるまであったけど、入院をその後2回もしたけど、でも、もう20才になり、まったく普通に元気に育った。

だから・・・
いつも思うんだ。
元気なだけで、生きているだけで、それ以上はいいんだって。

明日は母の日だ。

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私が帝王切開退院後、はじめて対面した日の写真。

音楽は、ほぼヤマハで勉強した!

私はこどものとき、音楽においてさまざまな体験をした。
家の近くの幼稚園の幼児科に入って鍵盤楽器に触れ、コンサートを見に行ったとき、「観る側」ではなく、「ステージの上に立つ側」になりたい、と強く思ったことを覚えている。
あれは 5才か6才のころのことだ。

大人になり、月刊エレクトーンに私が載るなんて・・・ね。

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歌を歌うのも好きだったけど、自分で自分の声に納得がいかなかった。
エレクトーンは楽しい楽器だった。一人でバンド演奏できるし、一人でオーケストラにもなれる。
ピアノは、とにかく「間違いなく」「譜面通り」弾くということが、みんな一緒のことを弾くのかと思うとつまらなく思えるし、なによりもあのしらっとした、飾りのない、明るいだけのステージで演奏するのがいやだったんだ。

おもしろいな〜とそこそこがんばってやってたら、ちょうど、こどもたちに作曲をさせて、演奏をさせる、というオリジナルコンサートというプロジェクトが始まった。名古屋にいたから、他の地域のことは知らないけど、とにかくそのヤマハがはじめた、プロジェクトの実験台、最初の5〜6名に私は選ばれてしまったのだ。

ジュニアオリジナルコンサート(JOC)はいまも続いている。それってすごい。
このあゆみをみると1972年の第一回の合歓で行われたコンサートの会場に私はいた!!
残念ながら私はあまり優秀ではなかったので、友だちが出演するのを見に行っていたのだ。
http://www.yamaha-mf.or.jp/joc/activity/meaning/

このころのメンバーをみると、みんな今も一線で活躍している演奏家、作曲科、編曲家がたくさんいる!
優秀がこどもたちが集まっていたんだよね、私はそんな中とっても劣等生だったので、ついていくのに必死だった。

このプロジェクトのトップが、当時のヤマハの川上理事長さんだった。
こどもたちが作曲の発表をするコンサートなどが名古屋であり、理事長さんが聞きに来ることになると、JOCのこどもたちが話し相手だった。いつもニコニコしていて、やさしいおじさまだったけど、大人はみんなピリピリしてた。

私たちが通っていた、東山公園にある東山センターは、1階、2階が家具売り場とスーパーマーケットだった。音楽教室とスタジオはその上の階だったのだけど、万が一家具売り場も見学するかもしれない、と、大人たちは気を利かせすぎて、理事長さんの来る日は、家具売り場もJOCの曲がBGMとしてかかっていたし、理事長さんの書いた本がさりげなく?!私から見るとわざとらしく、家具売り場の本棚に並べられていた。理事長さんも、行く先々でJOCの曲がかかり、自分の書いた本がおいてあるってなんかおかしいなと思わなかったんだろうか。
あるとき、大事件がおきてしまった。私たちこども数名が家具売り場や音楽教室を案内したりして、大人が目を離したすきに、「理事長さんがいない!」となった。トイレにいるのかとか、まさか外に出てしまったのか、はたまた東山動物園に行ってしまったんじゃないかとか、必死で探したところ、、、。なんと、1Fのナフコというスーパーのレジに乾電池を買おうと思って並んでいたのだけど、お金をもっていなくて、レジのおばさんに変なおじさんと間違えられて、困っていたところを発見される、という冷や汗な事件があった。そのとき、私は社長さんってお財布をもっていないのか、とこどもながらに知ったのだ。持つ必要がないんだよね、たぶん。
理事長さんはとくにおこってもいなくて、平常心で、つきそいの社員にお金を払ってもらい電池を手にして普通にニコニコしていた。まわりは冷や汗で死にそうな大人たち・・・。不思議な光景だったな。

あるとき、こどもたちのコンサートをみていて、「ピアノの発表会みたいなドレスに胸のコサージュ、あれはよくない」と彼がいったとたん、次の年より、JOCのコンサートで胸にコサージュをつけたこどもはゼロになった。いまは解禁されているのだろうか。

ある年に、「サックスはオーケストラで使われない楽器だけど、あればなかなかいい楽器だ、もっと日の目を見ないと」と言っていた、ということが全国のJOC指導者に知れ渡った。私も当時の先生からサックスの入った曲を創るように言われたけど、つくらなかった。そして当たり前のように全国からサックスが入った楽曲が集まったらしい。

さりげなくいったこと、ふと漏らした言葉を、まわりの大人が「神の声」のように聞いて実行しようとしているのをたくさん見てきた。ポップスではドラムが指揮者だとの発言があったので、理堤(理事長提出用)と呼ばれる音源のミックスがドラムと歌しか聞こえないようなミックスになってしまったり。

判断はとても正しい人だったと思うし、さすがなコメントもたくさんあった。だけど、まわりの大人たちが気にしすぎて、過敏に反応しすぎてて。なんかこどもながらに気の毒だとおもったくらいだった。

大人になって、クラビノーバの海外デモンストレーターをしていたとき、北京で大学に通っている、お孫さんに会った。中国の日航のホテルで2人でお茶することになったので、浜松?の大きな池の周りでの春の園遊会にいったことなど話したけど、残念ながら、恋バナには発展しなかったな(笑)するわけないか・・・。いまごろどうされているんだろう。そのときもらった名刺、まだ持ってると思う。普通のやわらかい感じの青年だった。

ポプコンの想い出は以前ここにも書いたので、ぜひ。

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